横断歩道で信号待ち。私のそばには、近くの小学校に通うであろう児童が同じように青信号になるのを待っている。すると、道路の反対側から、信号が変わるのを待ちきれずに大人が渡って来た。しかも児童の目の前で。
手本になるはずであろう大人が信号無視。法令を守れない大人に怒りが込み上げる。
しかし、頭を冷して考えると、私はどうだろうか?完璧に法を守っているだろうか?例えば自転車で法規を無視することだってあるじゃないか。
自分を棚に上げ、他人に厳しい無盾だらけの自分にうんざりし、こんな自分にどう向き合えばいいのか途方に暮れる。
あるとき気づいた。この思いは「我のとらわれ」にあるのでは?と。
法令順守を他人に強要するのは、「我」を強化する根拠として法令を持ち出しているに過ぎない。「法律なんだから、私の言っていることが正しいでしょ。」って訳だ。つまるところは「我」を正当化しているのである(善人による我の正当化)。
ところが、自分の都合で、自転車を使った違法行為を行うこともある。このときには、法令順守はあっさり無視される。これも、違った意味での「我」の正当化である(非善人による我の正当化)。
単的に言えば、その場の都合で色の変わる自己チューだ。
こんなときは「自分が。自分が。」という気持ちがニョキニョキっと出た段階で、我を殺す。
そうすれば他人への怒りも現れず、自分にもうんざりせずにすむ。
我を滅することで、心の安定化を図ることができる訳だ。