私は新しもの好きです
新しもの好きの心情は
自分で言うのもなんですが、私は学習意欲が旺盛で、最新コンセプトや世の中の動向を知ることに熱心です
こういうところが新しもの好きに関係しているのだと思います
一度気になってしまうと、そのことが頭から離れなくなります
ネットを使って、そのことに関する情報をとことん探し回ります
そして、それを手にしたときの私を妄想してしまいます
念願叶って目的のものを手にしたときが喜びの頂点となるのですが、ものによってはその熱も次第に冷めていきます
この様子を家族のものは「またか」という目で見ます
家族には単なる浪費と映ってしまうようです
浪費癖となってしまうメカニズム
中には大切に使い続けるものもあるのですが、そうでないものと違いはどこにあるのだろうか?
そのヒントとなりそうな記事に巡り会えました
登場した製品や技術が見るからに斬新で、人々に直観的な驚きを与える「木」であるほど、「木を見て森を見ず」のメカニズムが作動しやすくなります。つまりは「インパクトは見た目が9割」ということです。見た目のインパクトが強烈な場合、ユーザーの使用文脈という「森」を冷静に見るのは難しくなります。「木」が効果や効率の点で、顧客にとって実質的な価値をもたらすのかどうかを見極める目が曇りがちになります。
見た目はすごかった! セグウェイもグーグルグラスも落ちたわな:日経ビジネス電子版
記事によると「使用文脈を軽視している」ことが理由のようです
「使用文脈」とは、その人が使う目的、条件、状況ということでしょう
もう少しわかりやすく言うと、ユーザの利用シーンを考えると本当にそれは必要な技術なのだろうか、使用上の懸念(セキュリティなど)はないのだろうか、使用上の不自然さはないだろうか、既存のツールで十分代替できるのではないか、ということを十分に考えずに購入してしまうのがいけないようです
まさに「木を見て森を見ず」ですね
浪費を避けるために
人はそれぞれ異なる使用文脈を持っています
その新しいものを重宝に感じる人はいても、私には無用の長物となることは十分あり得ます
使用文脈が異なるのです
新しいものがもつインパクトに目を奪われず、それを使うことによって得られる体験がどれだけの価値を生むのかということを考えることが大切なようです
真の提供価値は何か?ということですね
最近は年とともに経済力が衰えてきたので、以前より抑制が効いてきたと思いますが、記事が言うところの使用文脈を見る目が年とともに養われたと言い切れないところもあります
ここでの気づきを忘れないようにしたいと思います