今日は、世界初のラップトップコンピュータの事業を欧州市場で立ち上げた、東芝元会長 西田厚聰さんの人間観についてお話しします
人間はどうしても慣れ親しんだ環境下での判断を下してしまう
生まれながらにして人間は時間的にも、空間的にも限定的な中で生活している。情報も大量にあるようだけれども、自分で処理しているのは自ずと限定的になる。つまり、色々な意味で限定的な中で判断を求められるんです。そうすると、人間はどうしても慣れ親しんだ環境下での判断を下してしまう
「テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅」(児玉 博/小学館)
交通機関の発達が空間的制約を外し、様々な場所へ手軽に行けるようになりました
情報技術は(未来方向にはまだまだですが)過去の時間的制約を外すようになりました
(未来方向の制約をはずすには、タイムマシンの発明を待たなければならないでしょう)
けれども、テクノロジーで制約を外したところで、そもそも人間はたくさんの情報を処理し切れないのです
だから限られた空間、時間の、慣れ親しんだ環境下で自分勝手な判断を下してしまう
偏見に囚われてしまう
それが、西田さんの人間観です
偏見に囚われてしまうと
「人間は偏見に囚われてしまう」と書きましたが、この問題を更に難しくしているのが、「当の本人が偏見に囚われていると気付いていない」ことにあります
それはどうしてでしょうか
それは、限られた空間、時間、情報の中では、論理の組み立てが成立してしまっており、疑いようがないからです
そうです
もはや「偏見」ではなく、「常識」になってしまっているのです
こうなってしまうと、自分が間違っていることに気付くことは出来ません
西田さんは欧州でラップトップコンピュータの事業を立ち上げるのですが、デスクトップパソコンが全盛の中、ラップトップコンピュータを認知させるには並大抵の苦労ではなかったと思います
「パソコンと言えばデスクトップが当たり前」
「ラップトップコンピュータで何が出来るの?こんなに小さくて大丈夫なの?」
「ハードディスクのようなデリケートな装置を持ち運ぶなんて信じられない。壊れたらどうするんだ」
「TOSHIBAってどこのメーカー?パソコンはIBMでしょ」
その当時の当たり前は、当時の人の常識であり、偏見であるとは誰も気付きません
しかし、今日ではラップトップコンピュータはノートパソコンと呼ばれるようになり、「パソコンと言えばノートパソコン」が常識であり、当時の「パソコンと言えばデスクトップが当たり前」が偏見だったのです
疑うべき常識を打ち破るために
当時の「パソコンと言えばデスクトップが当たり前」は偏見であり、疑うべき常識でした
この疑うべき常識に、西田さんはどう立ち向かっていったのでしょうか
西田さんは、次のように言っています
要は、どれだけ自分を突き放して見られるかが大切なんだと思います
「テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅」(児玉 博/小学館)
そして、部下にあらゆる情報を集めさせたそうです
当時の常識が、疑うべき常識であるに足る情報を集めさせ、「パソコンと言えばデスクトップが当たり前」というのは「今、ここだけで通用している常識である」と考えさせ、それを起点にイノベーションを起こし、ラップトップコンピュータ事業を成功に導いたのです
疑うべき常識の見極め方
ビジネスパーソンに哲学を学ぶ意味を説いている山口周さんは、イノベーションを起こすには「常識を疑え」といった安易な指摘ばかりで、「なぜ世の中に常識というものが生まれ、それが根強く動かし難いものになっているか」の論点が欠けていると指摘しています
重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけるということではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養だということです。
武器になる哲学(山口周)
西田さんと山口さんは全く同じことを言っています
西田さんは、時間的・空間的制約を解くために情報をできるだけ集めることを勧めており、山口さんは、空間軸・時間軸での知識の広がりを持たせるために教養を身につけることを勧めているのです
そして、山口さんは教養を身につけるために、哲学を学ぶことを勧めています
西田さんは不正会計問題で東芝に危機を招いた張本人の一人という暗い面をお持ちですが、東芝をノートPC市場で世界1位のシェアに導く輝かしい実績も残しています
西田さんもきっと哲学に造詣が深かったことなのでしょう
だからビジネスで成功したのだと思います