内山節の「半市場経済」読んでいたら、共同体の説明があった。

共同体とは

共同体は共に生きるという持続的な関係によって成立する

そしてその最小単位が家族だと書いてあった。

この文章を読んだ時に、我が職場は共同体となっているだろうかと考えた。職場の人に「うちの職場は共同体だろうか?」と尋ねたら、「共に生きるだなんて、そんな大げさなな」と言われてしまうだろう。「そこまでの生活に困っていないよ」とか「そこまで危機感を共有していないんじゃなかな」と言われるかもしれない。

確かに、今の環境であれば、なんとか生きて行くぐらいの生活はできるだろう。あるいは、「生活は保証されている」と思っているのかもしれない。

「よっぽどのへまをやらない限りにおいて、クビになって路頭に迷うことはないのだから、『共に生きよう』なんて言われてもピンとこいよ。」

と思われるかもしれない。

「共に生きていこう」と思える持続的な関係=”職場”

確かに、「生きるか死ぬか」というような生存の欲求を満たすという境遇を共有することはなくても、この世に生を受けてきたからにおいて、「お互いに意味のある仕事をしようよ」「新たな価値を見出すために共に協力していこうよ」と考えることはできるかもしれない。

もちろん、互いの欲求レベルの違いはあるかもしれない。でもその差をお互いに認識し、その中で共に生きていくと思えるような持続的な関係について考えてみないか、とは言うことができると思う。

生きていくという大げさなことでなく、共に成長しようというのでも良いかもしれない。課長は課長としての成長、若手技術者は技術者としての成長。中には介護生活との両立という制約のある中での自己実現したいという人もいるかもしれない。

でもそうして、お互いの持続的な関係を築けると思った時に、その職場は生き生きと輝き始めるような気がする。

そう思った。