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旅行、映画、コンサート・・・、娯楽って楽しいですよね
でも「娯楽は楽しいけれど、仕事や日常生活は楽しくない」と感じることってありますよね
その理由を考えたことありますか?
「そんなこと、当たり前じゃないか。そういうものなんだから」って言われそうですが、ここではその当たり前の理由を改めて考えてみたいと思います
なぜならば、そこには仕事や日常生活を楽しくするヒントが隠されているからです
誰もが楽しく人間的な生活をしたい
人生とは人がこの世で生きていくことです
一度だけの人生ですから、楽しく生きることを望まない人はいないと思います
この世に生まれたばかりの赤ちゃんの愉快な笑顔を見るたびにそう思います
心が満ち足りて、うきうきするような、明るく愉快な気分を感じる人間的な生活をしたいのだと
生活を楽しめなくなった人が娯楽を求める
実際のところはどうでしょうか
誰もが生活を楽しんでいるわけではありません
そのような人たちはどうしているのでしょうか
戦前・戦中の哲学者三木清は、著書「人生論ノート」で「娯樂といふものは生活を樂しむことを知らなくなつた人間がその代りに考へ出したものである。」と述べています
近代化による機械技術が生活から楽しみを奪い、人々は生活とは別の娯楽を求めるようになったと指摘しています
チャールズ・チャップリンは三木と同時代に生きた人です
チャップリンは資本主義社会や機械文明を風刺した映画「モダンタイムス」を作りました
三木と同じように近代化が生活から楽しみを奪ったと考えてこのような映画を作ったのでしょう
この映画では、機械の歯車と化した人であっても、幸せを求める姿が描かれています
生活から楽しみを奪われた人は、そのままでいることはできません
娯楽を求め、楽しく生きることを望むのです
なぜ娯楽は楽しくて、生活は楽しくないのか
娯楽の語源は仏教
娯楽という言葉は仏教の言葉だそうです
「仏教に限らず多くの宗教で歌、舞(踊り)、音楽が法要儀式の中に取り入れられていますが、それによって心が落ち着き、自然に宗教的雰囲気の中へ入っていくことができる。これを「娯楽」といい、それが「快楽」につながっていくのです。」(出典:「 第47話 娯楽(ごらく)」、 耕雲寺 )
お祭りなどの儀式を通して心を和やかにしていたのが、娯楽だったのですね
柳田國男が近代化による民俗の変容を説明する言葉としてハレ(非日常)とケ(日常)を使いました
このハレとケを使って娯楽を説明すると、下図のようになります
昔の人も生活に辛いことがあったのでしょうが、お祭りという非日常の行事を通して娯楽を感じていたのでしょう
現代でも途絶えることなく各地で祭りが続いているのは、それによって得られる娯楽があるからだと思います
三木は、娯楽を「他の仕方における生活」と定義しています
「他の仕方による生活」の「他の仕方」と言うのは、普段使われていない器官や能力を働かせた手段のことです
祭りでいうと、歌、踊り、演奏でしょう
このような手段を使って、生活を娯楽にしたと三木は考えました
また、お祭りは当日だけでなく、準備段階に多くの時間を費やします
役割を決め、資金を集め、必要な備品を調達し、当日の式次を決め、演目に従って歌、踊り、演奏の練習をし、会場の設営などを行います
三木は「人間にとつて娯樂は祭としてのみ可能であつた。」と述べています
祭りでは、歌ったり、踊ったり、演奏するだけでなく、準備段階から祭りを自ら作り上げていきます
その作り上げていく行為に楽しみを見出す、そのような姿が本来の娯楽であったと三木は言います
娯楽は生活とは別のものになった
近代化に伴いハレとケの区別が次第に曖昧になったことを柳田國男は指摘しています
三木は娯楽に着目し、同様の指摘を「娯樂の大衆性」と表現しました
彼によると「娯楽は神・仏の世界といった非日常にあるもの」という観念が次第に失われ、新しい娯楽の形が日常の中に生まれたというのです
その新しい形の娯楽とは、江戸時代であれば、芝居、錦絵、花見、居酒屋、伊勢参りであり、大正・昭和時代であれば、映画、カフェ、国内・海外旅行といったものです
日常に現れた新しい形の娯楽には、それを作る専門業者がいます
娯楽を楽しむ人は、その人たちが作った娯楽に「観ることで参加」するようになります
お祭りのように「作ることで参加」した娯楽は、参加した人が主役であり、その人の生活の一部といえるものでした
ところが、「観ることで参加」する娯楽の主役は専門業者であり、参加する人たちは客なのです
そして「観ることで参加」する娯楽は、専門業者の生活であり、参加する人の生活とは呼べないものになっていったのです
この日常に現れた新しい形の娯楽と生活の関係を表すと下図のようになります
この娯楽という観念の変化について、三木は「娯樂はただ單に、働いてゐる時間に對する遊んでゐる時間、眞面目な活動に對する享樂的な活動、つまり「生活」とは別の或るものと考へられるやうになつた。」と解釈しています
神・仏の世界にあった娯楽のように「作ることで参加」することが少なくなり、「観ることで参加」の娯楽が一般化すると、ますます娯楽は自分たちの生活と別のものになっていったのです
生活は楽しくないもの、娯楽は楽しいもの
このように生活と娯楽が分裂していくにつれて、人々は「生活は楽しくないもの、娯楽は楽しいもの」と対立的に考えるようになります
実体験として良く分かりますね
旅行に行っているときは楽しいのですが、「明日から仕事かあ」と思いながら帰途につく経験は誰にでもあると思います
旅行が生活を楽しみに変えることはなく、「生活は楽しくないもの、娯楽は楽しいもの」と刷り込まれていくのです
勤勉な日本人は娯楽すら楽しめない
三木の指摘は勤勉な日本人の娯楽観にも言及します
それは、生活から分裂した娯楽は断念して良いもの、むしろ断念されるべきものと考えてしまうことです
人間的な生活とは、心が満ち足りて、うきうきするような、明るく愉快な気分を感じられる生活です
多くの日本人は、人間的な生活を楽しむことのできず、非人間的な生活を強いられがちなのです
この勤勉な性質が戦後の高度経済成長を支えたのかもしれません
生活を娯楽にする
娯楽が生活とは別のものになり、「娯楽は楽しいもの、生活は楽しくないもの」と感じるような人に、楽しみのある生活を取り戻すことはできないのでしょうか
心が満ち足りて、うきうきするような、明るく愉快な気分を感じさせる生活はできないのでしょうか
楽しみのある生活スタイルを作る
生活を楽しみたいと願う人たちに対して、三木は次のような処方箋を提示します
それは、非日常の祭りで可能であった楽しみ方を、日常の生活に取り込むというものです
宗教の儀式として行われていた祭りでは、心の安らぎを得るために、歌ったり、踊ったり、演奏するといった「他の方法」によって、自ら祭りを「作ること」に参加し、生活に娯楽をもたらしていました
これを日常の生活にも適用し、「他の仕方」によって、「作ること」に参加し、生活を娯楽にしたらどうかというのです
そして、そこで何を作るのか?
それは、楽しみをのもたらす「生活スタイル」を作りなさいと、三木は教えます
心が満ち足りて、うきうきするような、明るく愉快な気分を感じさせるような生活スタイルを作るのです
この三木の提案と、宗教の世界で行われた祭りを対比して説明すると下表のようになります
宗教 | 三木の提案 | |
---|---|---|
目的 | 心の安らぎ | 楽しみのある生活 |
方法 | 歌、踊り、演奏 | 他の仕方 |
作るもの | 祭り | 生活スタイル |
祭りのように「自ら作ることで楽しむ」という方法を忘れて生活に楽しみを失ったのであるなら、その楽しむ方法を思い起こしなさいということです
「観ることで参加」といった受け身の楽しみ方に頼るのではなく、生活を能動的に「作って」楽しみなさいということです
そうして、生活に楽しみを取り戻しなさいと教えているのです
手段の発明と目的の発明
「他の仕方」についてもう少し考えましょう
三木の定義によると「他の仕方」は「普段使われていない器官や能力を働かせた手段」ですが、具体的にどういう方法でしょうか
三木は「生活の他のものとしての娯樂といふ抽象的な觀念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響に依るものとすれば、この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術といふものが現代文化の根本問題である。」と述べています
娯楽の観念を変えたのが機械技術であるなら、「機械技術を支配する技術」を「他の仕方」として編み出し、生活スタイルを作り直すことが必要と三木は述べています
私はここに「他の仕方」を具体化するヒントがあると思います
また、三木は生活スタイルづくりには工夫と発明が必要と述べ、
「しかも忘れてならないのは、發明は單に手段の發明に止まらないで、目的の發明でもなければならぬといふことである。・・・(中略)・・・眞に生活を樂しむには、生活において發明的であること、とりわけ新しい生活意欲を發明することが大切である。」
と工夫と発明のあり方を教えています
目的の発明という言葉がいいですね
これは楽しむという手段の発明だけでなく、生きる目的を見出すことが楽しみを見出す秘訣であると言っているのでしょう
「生活スタイルを自ら作り出すことによって生活を娯楽にし、心が満ち足りて、うきうきするような、明るく愉快な気分を感じる人間的な生活を送る」
これが三木の処方箋です
働く人の生活を娯楽に変える働楽術
私たちは生計を立てるために働きます
暮らしていくために必要なことでありますが、暮らしそのものでもあります
よって生活を楽しむということは仕事を楽しむということでもあります
三木の教えは、仕事含めての生活を対象としているので、「生活(仕事)スタイルを自ら作り出すことによって、生活(仕事)を娯楽にしなさい」と言うことになります
三木の教えを実践する企業
戦前・戦中に生きた三木の教えは、現代にも通用するのでしょうか
実際に仕事のスタイルを作ることで、三木の言う「作ることに参加」し、仕事を娯楽にしている企業があります
楽しく働く環境に成功したサイボウズなどは、自分たちで「100人いたら100通りの働き方」の人事制度を作って社員に合わせた仕事スタイルを作っています
Googleは自らの働き方改革に留まらず、「re:Work Japan」を通じて仕事スタイルを他社に提案し、仕事を娯楽にする仲間を増やしています
このように三木の教えは現代の企業で活かされているのです
仕事を娯楽とする教養
仕事をするには専門知識が必要なのですが、仕事スタイルを改めて作ろうとすると、この専門知識が邪魔をして「他の仕方」とならないことがあります
良くありがちなのが、「他の仕方」を選ばず、「今、使っている仕方」すなわち専門知識の延長線上で行われる業務効率化です
これでは仕事は娯楽に変わりません
三木の言う「他の仕方」すなわち「普段使われていない器官や能力を働かせた手段」には専門知識以外の知識が必要なのです
それは教養だと私は考えています
例えば、倫理学で扱われる「楽しく人間的に生きるにはどのようにすべきなのか」といった価値判断に関わる知識といったものが挙げられます
本サイトの狙い
これまで述べてきたとおり、大衆化した娯楽は働く人の生活とは別のものであり、生活に楽しみをもたらしません
生活自体を楽しみに変える方法が必要なのです
そしてこのサイトでは「働く人の生活を楽しむための方法」を取り上げています
そこでは、心理学、職場における人間関係開発といった教養の範囲にある知識も使われます
現場の働く人たちにとって、これは「他の仕方」と映るでしょう
さらに三木の教えに従えば、他の仕方には「手段の発明に止まらず目的の発明が大切」になります
このような「他の仕方」によって仕事を娯楽にする方法(働楽術)をこのサイトで示しております
具体的には、風土改革ガイドブックの組織風土再生モデルで使われる「ワクワク化」プログラムで取り上げていますので、ご興味のある方はご覧下さい